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1982年、AORの頂点——『スリラー』と『TOTO IV』が同じミュージシャンから生まれた年

レコーディングスタジオのミキシングコンソール
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1982年の12か月に何が起きたかを並べてみる。4月、TOTO『TOTO IV』。8月、Michael McDonald『If That’s What It Takes』。10月、世界初のCDプレーヤーが店頭に並び、同じ月にDonald Fagen『The Nightfly』。そして11月30日、Michael Jackson『スリラー』。——たった1年のあいだに、AORという音楽観は商業・技術・芸術の三面すべてで頂点に達した。本稿は「1982年」というたった一つの切り口で、当サイトが扱ってきた名盤たちを一本の線につなぐ特集である。

目次

スタジオの黄金律——『TOTO IV』と『スリラー』は地続きだった

1982年のロサンゼルスでは、同じ顔ぶれのスタジオ・ミュージシャンが、のちに歴史に残る2枚のアルバムを行き来していた。ひとつは、前2作の商業的不振を受けて背水の陣で作られた『TOTO IV』。「Africa」が全米1位、「Rosanna」が2位、そして翌83年2月のグラミーで年間最優秀アルバムを含む主要6部門を制した。

もうひとつがQuincy Jones制作の『スリラー』だ。Steve Lukatherは「Beat It」でギターを弾き、Jeff Porcaroが同曲のドラムを叩き、「Human Nature」を書いたのはキーボードのSteve Porcaroだった。史上最も売れたアルバムと、その年のグラミーを制したアルバム。ふたつの金字塔の中心に同じミュージシャンがいた事実ほど、「AORとはスタジオ・ミュージシャンの音楽である」という定義を雄弁に語るものはない。『TOTO IV』の聴きどころは入門ガイドで曲ごとに解説している。

デジタル前夜、アナログの完成——『The Nightfly』とCD元年

1982年10月1日、ソニーが世界初のCDプレーヤーCDP-101を発売し、音楽メディアの歴史が動いた。いわゆる「CD元年」である。そして同じ10月、Donald Fagenのソロ第1作『The Nightfly』が世に出る。初期フルデジタル録音の代表作にして、エンジニアRoger Nicholsの技術の集大成——アナログ時代に磨き抜かれた録音哲学が、デジタルという新しい器に最初に注がれた瞬間だった。

つまり1982年とは、「アナログ録音の完成」と「デジタルの夜明け」が同じ月に交差した年である。この年の録音がいまだにオーディオの基準音源として再生され続けるのは、偶然ではない。『The Nightfly』は全曲レビューで深掘りしている。

声の1982年——マクドナルドの独立、ゲイの帰還

8月、ドゥービー・ブラザーズを離れたMichael McDonaldが初ソロ『If That’s What It Takes』を発表し、「I Keep Forgettin’」が全米4位に達する。10月にはMarvin Gayeがコロムビア移籍第1弾『Midnight Love』で復活を遂げ、「Sexual Healing」が時代の空気を塗り替えた。同じ10月、Hall & Oatesの『H2O』からは「Maneater」が全米1位へ駆け上がっていく。

白いソウルと黒いソウルが、シンセサイザーとドラムマシン、そして滑らかな声という同じ音響言語に収斂した年。ブルーアイドソウルという言葉が最も意味を持った12か月だったと言っていい。

もうひとつ、この文脈で忘れてはならないのが6月のChicago『Chicago 16』だ。プロデューサーに迎えられたDavid Fosterは、ブラスロックの雄を大人のバラード路線へ作り替え、「素直になれなくて (Hard to Say I’m Sorry)」を全米1位に送り込んだ。Fosterの「磨き上げの美学」はこの成功で時代の標準となり、2年後の『Chicago 17』で頂点を迎える。1982年は、その助走が始まった年でもある。

アリーナの足音——Asiaと「最後の生演奏の年」

同じ1982年、プログレッシブ・ロックの出身者たちが結成したAsiaのデビュー作が、全米の年間チャートを制する大ヒットとなった。緻密な演奏をアリーナ規模のポップに落とし込む手法は、翌83年のJourney『Frontiers』、84年のゲートリバーブ全盛期へと続く流れの号砲である。

言い換えれば、1982年は「生身の演奏の精度」がまだ主役でいられた最後の年だった。翌年以降、スタジオの主導権は徐々に機械へ移っていく。この転換の全体像は80年代AOR名盤10選で年代順にたどれる。

「いい音」の民主化——日本のハードウェアという伏線

CDプレーヤー第1号CDP-101を世に出したのがソニー、つまり日本のメーカーだったことは、この物語の重要な伏線である。1979年のウォークマン以来、日本のオーディオ機器は「良い録音を、良い音で、個人が聴く」という文化を世界規模で押し広げてきた。LAのスタジオが1ミリ単位で磨き上げた音の細部は、それを再生できるハードウェアがあって初めて意味を持つ。

高密度なスタジオワークの音楽——AORが70年代末から80年代前半にかけて日本で熱心に受容され、独自の進化(シティポップ)まで生んだ背景には、世界で最も再生環境が整った国だったという事情がある。作る側の頂点と聴く側の頂点が、1982年に重なった。

海の向こうの1982——東京のスタジオも同じ音を追っていた

視点を東京へ移すと、1982年1月には山下達郎『FOR YOU』が、夏には角松敏生が深く関わった杏里『Heaven Beach』が生まれている。ホーンとコーラスの重ね方、リズム隊の精度、録音への投資——東京のスタジオワークがLAと同じ水準・同じ美意識に到達したのが、まさにこの前後だ。

海の両側で、同じ年に、同じ理想の音が鳴っていた。この「同時代性」こそ、当サイトがシティポップをAORの地図に含める理由である。日本側の1982年はシティポップ名盤18選から掘り下げてほしい。

1982年を聴く順番——5枚のショートコース

この特集の音を実際に確かめるなら、次の順番をすすめたい。(1)『TOTO IV』——1982年の中心点。まずここから。(2)『The Nightfly』——録音の到達点を耳で確認する。(3)『If That’s What It Takes』——「声」の1982年を代表する1枚。(4)『FOR YOU』——同じ理想を東京で。(5)『Midnight Love』——ソウル本流から見た1982年。5枚を通すと、この年のスタジオに流れていた共通の空気がはっきり聴き取れるはずだ。配信で聴く場合はリマスター版が複数あることが多いので、まずは通常盤で当時のバランスを、気に入ったら高音質版で細部を、という二段構えをすすめる。

なぜ1982年だったのか

理由は三つ重なっている。第一に技術——アナログ録音が完成の域に達し、デジタルが夜明けを迎えた交差点だったこと。第二に人材——70年代を通じて鍛えられたセッション・ミュージシャンの黄金世代が、キャリアの脂の乗り切った時期にあったこと。第三に産業——LPとラジオを軸にした音楽ビジネスが、大予算のスタジオワークを許した最後の時代だったこと。三つの条件が同時に揃うことは、その後二度となかった。

だから1982年の録音は、44年経った今も色褪せない。この年を入口に、AOR名盤ランキング100選で自分だけの聴く順番を見つけてほしい。

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