アニタ・ベイカーの『Rapture』は、1986年のクワイエット・ストームを代表する1枚として語られます。ただ、収録8曲の作者欄を見ていくと、少し意外な事実に気づきます。ベイカー自身の名前があるのは3曲だけ。残る5曲は、ほかの職業作家の手によるもので、そのうち2曲には、彼女より前に別のアーティストが録音したバージョンがありました。
アルバムの成功から間もない1987年のインタビューで、ベイカーは曲選びについて「良い曲であること、それがすべて。どこから来た曲かは気にしない」という趣旨を語っています。本稿ではこの言葉を手がかりに、8曲の出自と録音の布陣、評価をたどり、AORリスナーのための入口も示します。
「良い曲なら出どころは問わない」という選曲の物差し
ベイカーはデトロイトのファンク・バンド、チャプター8に1975年に加わり、1983年にソロ・デビュー作『The Songstress』を発表しました。『Rapture』はそれに続く2作目で、レーベル移籍を経てElektraから1986年3月20日に発売されています。
プロデューサーに選ばれたのは、チャプター8を1974年に結成したギタリストのマイケル・J・パウエル。8曲中7曲をパウエルが手がけ、キーボード奏者のサー・ディーン・ガントが編曲とキーボードで支えました。ベイカー本人はエグゼクティブ・プロデューサーとしてクレジットされています。録音は1985年、グレンデールのYamaha R&D Studio、ハリウッドのMusic Grinder Studios、デトロイトのUnited Sound Systemsの3か所で行われ、エンジニアとミックスはバーニー・パーキンス、マスタリングはバーニー・グランドマンが担当しました。
先のインタビューでベイカーは、自分の書く曲にも同じ基準を当てはめ、心を動かされない曲は歌わないと述べています。また本作が広く受け入れられた理由を、ラブソング中心であることと、作り込みのない誠実さに求めています。他人の曲と自作曲を同じ物差しで選ぶ姿勢が、8曲の顔ぶれにそのまま表れています。
8曲の出自を作者欄からたどる
収録曲を作者と先行録音の有無で整理すると、次のようになります。ベイカー作の3曲、デトロイトやモータウン周辺の作家の2曲、そしてAORやジャズ・コーラスの文脈から来た曲が並んでいることがわかります。
| 曲 | 作者 | 先行録音/制作メモ | 聴きどころ |
|---|---|---|---|
| 1. Sweet Love | アニタ・ベイカー、ルイス・A・ジョンソン、ゲイリー・バイアス | グラミー最優秀R&Bソング受賞 | 低い音域から立ち上がる歌い出し |
| 2. You Bring Me Joy | デヴィッド・ラズリー | 1980年にノーマン・コナーズ作品でアダリサが録音 | ドン・マイリックのサックスとコーラスの厚み |
| 3. Caught Up in the Rapture | ギャリー・グレン、ダイアン・クワンダー | グレンはデトロイト出身の作家 | 5分超をかけてじわじわ上がる構成 |
| 4. Been So Long | アニタ・ベイカー | 本人が「最もジャズ寄り」と語った曲 | ジミー・ヘイスリップのベース |
| 5. Mystery | ロッド・テンパートン | 1983年にマンハッタン・トランスファーが録音 | 「指鳴らし」まで記された細かなリズム |
| 6. No One in the World | ケン・ハーシュ、マーティ・シャロン | 唯一パウエル以外(シャロン/スカーディナ)の制作 | L.A.のセッション陣による音像 |
| 7. Same Ole Love (365 Days a Year) | マリリン・マクラウド、ダリル・K・ロバーツ | マクラウドは「Love Hangover」の共作者 | 軽快なミディアム・テンポ |
| 8. Watch Your Step | アニタ・ベイカー | 本人がキーボードも担当 | ジェラルド・オルブライトのサックス |
二度目の命を得た2曲──「You Bring Me Joy」と「Mystery」
デヴィッド・ラズリーの曲がたどった道
2曲目「You Bring Me Joy」の作者デヴィッド・ラズリーは、AORの愛好家にはなじみのある名前でしょう。1982年にソロ作『Missin’ Twenty Grand』を発表したシンガー・ソングライターで、ジェームス・テイラーのバック・ヴォーカルとしても知られます。ボズ・スキャッグスの『Middle Man』(1980)の冒頭曲「Jojo」では、スキャッグス、デヴィッド・フォスターと並んで作者に名を連ね、コーラスも歌っています。
この曲は1980年、ノーマン・コナーズのアルバム『Take It to the Limit』でアダリサの歌によって録音されていました。ベイカー版は6年後のカバーで、ラズリー自身も1990年に自ら録音しています。ニューヨーク・タイムズのスティーヴン・ホールデンはベイカー版を「美しいポップ・ゴスペル調のバラード」と評しました。ドン・マイリックのサックスとジム・ギルストラップらのコーラスが、ベイカーの声を囲みます。
ロッド・テンパートンとジャズ・コーラスの系譜
5曲目「Mystery」は、ヒートウェイヴ出身でマイケル・ジャクソンへの曲提供でも知られるロッド・テンパートンの作品です。初出は1983年9月にAtlanticから出たマンハッタン・トランスファーの『Bodies and Souls』で、同作のA面3曲目に収められていました。
ベイカー版では、パウエル自身がギターを弾き、クレジットには「finger pops(指鳴らし)」の担当者まで記されています。4人の声が精密に重なるコーラス・グループの曲を、ひとりのコントラルトの声と、指を鳴らす乾いた音を含むリズムで組み直した形です。
自作3曲が指し示した方向
ベイカーが作者に名を連ねる3曲は、アルバムの冒頭、中盤、最後に置かれています。1曲目「Sweet Love」はルイス・A・ジョンソン、ゲイリー・バイアスとの共作。出版譜ではB♭マイナー、テンポは約89BPMとされ、急がないリズムの上で、彼女の低い音域から歌が立ち上がります。ドラムはリッキー・ローソン、ベースはフレディ・ワシントン、パーカッションはパウリーニョ・ダ・コスタ。コーラスの3人が、主旋律に寄り添うように応えます。
4曲目「Been So Long」はベイカーの単独作で、本人は1987年のインタビューで、アルバムの中で最もジャズ寄りの曲だと位置づけ、今後この方向にさらに進みたい、自分にとって一番歌いやすいスタイルだと語っています。ここでベースを弾いているのは、フュージョン・グループ、イエロージャケッツの創設メンバーであるジミー・ヘイスリップ。ベイカーは同じインタビューで、次作の協力者としてイエロージャケッツの名を挙げていました。
最後の「Watch Your Step」もベイカーの単独作で、彼女自身がキーボードを弾き、ジェラルド・オルブライトがサックスを吹いています。
パウエル組とL.A.セッション陣の二つの布陣
参加ミュージシャンを見ると、8曲中7曲はパウエルとガントを中心とする同じ顔ぶれで録られ、6曲目「No One in the World」だけがまったく別の布陣になっています。この曲はマーティ・シャロンとゲイリー・スカーディナの制作で、ギターにディーン・パークスとポール・ジャクソン・ジュニア、ベースにニール・スタブンハウス、ドラムにジョン・ロビンソン、シンセサイザーのオーバーダブにグレッグ・フィリンゲインズと、L.A.のスタジオ録音でおなじみの名前が並びます。
| 担当 | パウエル制作の7曲(主な奏者) | 「No One in the World」 |
|---|---|---|
| プロデュース | マイケル・J・パウエル | マーティ・シャロン、ゲイリー・スカーディナ |
| キーボード | サー・ディーン・ガント、ヴァーノン・フェイルズ | ランディ・カーバー(シンセ追加:グレッグ・フィリンゲインズ、ポール・チテン) |
| ギター | グレッグ・ムーア、マイケル・J・パウエル、ドナルド・グリフィン | ディーン・パークス、ポール・ジャクソン・ジュニア |
| ベース | フレディ・ワシントン、デヴィッド・B・ワシントン、ジミー・ヘイスリップ | ニール・スタブンハウス |
| ドラム | リッキー・ローソン、アーサー・マーベリー | ジョン・ロビンソン |
| パーカッション | パウリーニョ・ダ・コスタ、ロレンゾ・ブラウン、ローレンス・フラタンジェロ | パウリーニョ・ダ・コスタ |
7曲側で低音を支えるフレディ・ワシントンは、パトリース・ラッシェンの「Forget Me Nots」(1982)の共作者でもあり、同曲でベースも弾いています。パウエル組の一体感とL.A.の職人たちの音像が同居している点も、本作の聴きどころです。
チャートとグラミーが示したもの
| 項目 | 記録 |
|---|---|
| Billboard 200 | 最高11位(1987年の年間チャート9位) |
| Billboard R&Bアルバム | 1位 |
| 全英アルバム・チャート | 最高13位 |
| RIAA認定(米国) | 5×プラチナ |
| 「Sweet Love」 | Hot 100 8位/R&B 2位/アダルト・コンテンポラリー 3位/全英13位 |
| 「Caught Up in the Rapture」 | Hot 100 37位/R&B 6位/アダルト・コンテンポラリー 9位 |
| 第29回グラミー賞(1987年2月24日) | 最優秀R&B女性ヴォーカル・パフォーマンス(『Rapture』)、最優秀R&Bソング(「Sweet Love」) |
1987年の年間チャートで9位に入っており、発売後も長く売れ続けました。シングルがアダルト・コンテンポラリー・チャートでも上位に入った点は、R&Bの枠を越えて大人のポップスとして聴かれたことを示しています。後年の評価では、ローリング・ストーン誌が2020年版「史上最高のアルバム500」で404位に選んでいます。
クワイエット・ストームからAORへ渡る橋
「クワイエット・ストーム」は、スモーキー・ロビンソンの1975年作『A Quiet Storm』に由来する言葉で、1976年にワシントンD.C.のWHUR-FMで始まった深夜番組がその名を広めました。ジャズの香りをもつ落ち着いたR&Bを指し、洗練されたアレンジと抑えたテンポという点でAORと多くを共有します。
AORから入るなら、まず「You Bring Me Joy」を、ラズリーが関わったボズ・スキャッグス『Middle Man』の「Jojo」と続けて聴いてみてください。同じ作家の旋律が、編成の違いでどう響き分けられるかがわかります。2年早く登場したシャーデー『Diamond Life』とは、ジャズを含んだ静かな夜の音楽という点で並べやすい1枚です。
L.A.のセッション文化から近づくなら、フレディ・ワシントンつながりでパトリース・ラッシェン『Pizzazz』、ジャズとポップの間を行き来したヴォーカルとしてアル・ジャロウ『Breakin’ Away』がよい入口になります。サックスが歌に寄り添う感触が気に入ったなら、グローヴァー・ワシントン・ジュニア『Winelight』へ。ジャンル全体の地図はAOR名盤ランキング100選で確認できます。
試聴・購入
『Rapture』は、各音楽配信サービスやCD・レコードのショップで「Anita Baker Rapture」と検索してお探しください。配信状況は時期や地域で変わるため、各サービスでご確認ください。
参考資料
- Rapture (Anita Baker album) – Wikipedia(英語)
- Sweet Love (Anita Baker song) – Wikipedia(英語)
- You Bring Me Joy (Anita Baker song) – Wikipedia(英語)
- Bodies and Souls (The Manhattan Transfer) – Wikipedia(英語)
- David Lasley – Wikipedia(英語)
- 29th Annual Grammy Awards – Wikipedia(英語)
- Anita Baker 1987 interview – SoulMusic.com(英語)
- Quiet storm – Wikipedia(英語)
