1976年、Boz Scaggs(ボズ・スキャッグス)が放った『Silk Degrees』は、AOR(Adult Oriented Rock)というジャンルがまだ言葉として確立する前に、その方法論をほぼ完成形で提示した歴史的な1枚である。後に Toto を結成する David Paich/Jeff Porcaro/David Hungate の若手3人をバックに迎え、Billboard 200 で2位、全世界で500万枚以上を売り上げた商業的成功と、グラミー受賞という批評的評価を同時に獲得した。本記事では全10曲を、人脈と音作りの両面から徹底解説する。
このアルバムを聴くべき3つの理由
- 1976年、まだ「AOR」という言葉が定着する前に、その方法論をほぼ完成形で提示した歴史的1枚
- 後に Toto となる David Paich/Jeff Porcaro/David Hungate がバンドの原型を披露している、Toto 前夜の最重要録音
- Lowdown で R&B、Lido Shuffle でロック、We are All Alone でバラード——3つの代表曲が3つの異なる聴衆を一気に獲得した、商業的にも批評的にも稀有な成功例
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1976年、Boz Scaggs が「賭けた」アルバム
Boz Scaggs はこの作品を出すまで、Columbia と4枚契約していたが目立ったヒットがなく、契約解除の瀬戸際にいた。彼自身、後年のインタビューで「これがダメなら音楽を辞めるつもりだった」と語っている。
Columbia は最後の賭けとしてプロデューサーに Joe Wissert(The Turtles, Helen Reddy)を起用、ロサンゼルスのスタジオ・ミュージシャン界でもまだ名の知られていなかった当時22歳の David Paichを音楽監督的なポジションに抜擢する。Paich は同じくセッションで頭角を現していた Jeff Porcaro(drums)と David Hungate(bass) を呼び寄せた——後の Toto の中核である。
つまり『Silk Degrees』は、「キャリアの瀬戸際にいたシンガー」と「まだ無名の若手プレイヤー」が、互いの未来を懸けて作った1枚であり、結果として Billboard 200で2位、全世界で500万枚以上を売り上げ、Lowdown でグラミー(Best R&B Song)を受賞した。AORというジャンルを語るうえで、この作品を外すことはできない。
全曲レビュー(Side A → Side B)
Side A
1. What Can I Say(3:00/Scaggs, Paich)
オープナーは軽快なシャッフル。Paich のクラビネットが終始リズムを刻み、Boz の少しかすれたヴォーカルを優しく押し出す。アルバムの「入口」としての完成度が高い1曲。
2. Georgia(3:55/Scaggs)
ペダル・スティールが鳴る、Boz の得意とするカントリー・ソウル系。Doobie Brothers の Patrick Simmons がコーラスで参加。次の曲との対比で、アルバムの懐の深さを感じさせる。
3. Jump Street(5:11/Scaggs, Paich)
ティアB——アルバム前半の隠れた名曲。途中から入るホーン・セクション(Plas Johnson, Jerome Richardson 等)が完全にジャズ・ファンクの語彙で吹き、後半のヴァンプは Paich のジャジーなエレピが主役を奪う。「この曲を5分聴くと、AORが何のジャンルかわかる」と言ってもよいほど、ロック/ソウル/ジャズの折衷を体現している。
4. What Do You Want the Girl to Do(3:53/Allen Toussaint)
ティアB——Allen Toussaint の名曲を Boz 流に解釈。原曲の New Orleans R&B 的アクセントを残しつつ、ロサンゼルスの洗練された音響に落とし込む手腕は見事。Boz の歌の「色気の出し方」を学ぶには最適な1曲。
5. Harbor Lights(5:59/Scaggs)
ジャズの香りを纏うバラード。Boz が後年トーチ・ソング集『But Beautiful』(2003) に発展させていく方向性が、すでにここに現れている。
Side B
6. Lowdown(5:18/Scaggs, Paich)★ ティアA
このアルバムの——そしておそらく Boz Scaggs のキャリアにおいても——最も重要な1曲。Jeff Porcaro が世に放った最初の代表的グルーヴとして、ドラム史に名を刻む録音である。
Porcaro 自身が後にインタビューで明かしているが、彼はこの曲のドラム・パターンを、バーナード・パーディの Pretty Mama のシャッフル感を意識して叩いた。実際に聴くと、ハイハットが極めて軽く、スネアのバック・ビートが2拍4拍より「ほんの少し」前に置かれている。この絶妙な前のめり感が、David Hungate の極端にミュートされたベースと組み合わさったとき、誰も模倣できないファンク・グルーヴが生まれた。
Paich のクラビネットも秀逸で、フィルが入る瞬間に和音が「滑り落ちる」ような独特のヴォイシングを使っている。Boz のヴォーカルは控えめだが、サビの She just dont have the time, for losers like me のフレージングは、彼の歌唱表現の頂点と言ってよい。
グラミー Best R&B Song 受賞。この曲だけでこのアルバムは買う価値がある。
7. It is Over(2:36/Scaggs)
ホーンが豪華に鳴る2分台のショート・チューン。Lowdown の余韻を断ち切らず、しかし新しい色を入れる絶妙な配置。
8. Love Me Tomorrow(3:18/Scaggs, Paich)
ピアノが先導する小品。次に来る Lido Shuffle の助走として機能している、と捉えるとアルバム構成の巧みさが見えてくる。
9. Lido Shuffle(3:42/Scaggs, Paich)★ ティアA
イントロのシンセ・リフ——あの「ピロピロピロ」と聴き手の耳をつかむ ARP Odyssey のフレーズ——を作ったのは Paich である。彼はあるラジオ番組で、「フェーダーを上げ下げしながらモジュレーションを手で動かしている」と種明かしをしている。
ドラムは再び Porcaro。ここでは Lowdown の「軽さ」とは対照的に、足首だけで叩いているような乾いたシャッフルを刻む。同じドラマーが同じアルバムでこれだけ異なるフィールを出していること自体が驚異である。
Boz の歌唱も最高で、特に One for the road と転調する2サビ前のテンションの上げ方は何度聴いても惚れぼれする。「ライド・オン、ライド・オン」のシンガロングは、ライブの定番として今も観客を沸かせる。
10. We Are All Alone(4:13/Scaggs)★ ティアA
アルバムを締めくくる、Boz 自身が書いた最高のバラード。コード進行は単純だが、ストリングスとアコースティック・ピアノだけの簡素なアレンジが、逆に詞の切実さを際立たせる。
翌1977年に Rita Coolidge がカバーして全英2位の大ヒットとなり、その後 Three Degrees、Frankie Valli、伊勢正三など、世界中で200を超えるカバー・バージョンが録音された。Boz の歌が決して大袈裟にならず、最後まで囁くように歌い切る——その抑制こそがこの曲の核心である。
夜中に一人で聴くアルバムの最後にこの曲が流れる、そのときの空気を一度味わうと、もうこの作品から離れられない。
「Toto 前夜」のメンバー表
- Drums: Jeff Porcaro(当時22歳。本作後 Toto を結成)
- Bass: David Hungate(同じく Toto オリジナルメンバー)
- Keyboards: David Paich(音楽監督的役割。Toto の中核へ)
- Guitar: Les Dudek, Fred Tackett, Louie Shelton(Lukather はまだ参加していない)
- Horns: Plas Johnson, Jerome Richardson 他(LAジャズ・セッション陣の精鋭)
- Backing Vocals: Patrick Simmons(Doobie Brothers)他
- Producer: Joe Wissert
このメンバーの組み合わせが、2年後(1978)の Toto『Toto』ファースト・アルバムの音響的基盤を作った——と言ってよい。Silk Degrees → Toto 1st の流れで聴くと、AORというジャンルが「人」の繋がりで形成されたことが手に取るように理解できる。
Joe Wissert と Davlen Sound の音作り
録音は North Hollywood の Davlen Sound Studios。当時のロサンゼルスを代表するスタジオの一つで、Earth, Wind & Fire や The Doobie Brothers も使った場所である。Wissert は「ホーンを前に出しすぎず、ヴォーカルとリズムの間に居場所を作る」というミックスを徹底した。
特筆すべきは Lowdown と Lido Shuffle のキック・ドラムの「乾いた粒立ち」で、これは Wissert と Bill Schnee(エンジニア)の最大の貢献である。後年の AOR 録音の標準語彙のひとつとなる「ドラムが大きく聴こえないのに、確実にグルーヴを支配している」音作りは、ここから始まったと言ってよい。
オーディオ的には、リマスター盤(特に2007年の SACD ハイブリッド盤)でこの細部の質感が復活している。深夜の小音量再生で、ベースの粒の立ち方を確認してみてほしい。
このアルバムの位置付け
- 1974: Slow Dancer(前作。R&B路線への転換期)
- 1976: Silk Degrees(本作。AOR の方法論を確立)
- 1977: Down Two Then Left(続編的な構成、商業的にはやや失速)
- 1980: Middle Man(Jojo, Breakdown Dead Ahead を含む円熟期)
Silk Degrees はあくまで「ジャンルの始まり」の作品であり、Boz 自身の表現の頂点はむしろ Middle Man(1980)にあるという見方もできる。両者を聴き比べると、AOR が4年間でどれだけ洗練されたかが分かる。
私的な感想——Lido Shuffle のフェードアウト
僕がこのアルバムを最初に通して聴いたのは、確か高校生のときに父親のレコード棚から無断で取り出した日本盤LPだった。最後の We Are All Alone でターンテーブルが止まった瞬間に、なぜかもう一度 A面1曲目に戻して全部聴き直した記憶がある。
何度聴いても飽きないのは、1曲ごとの密度が高く、しかし全体としてどこか軽やかで風通しがいいからだろう。Lido Shuffle の最後のフェードアウトで Porcaro のフィルがほんの一瞬だけ前に出てくる——あの瞬間の「もうちょっと聴いていたい」と思わせる引き際こそ、このアルバム全体を象徴している。
AOR を一言で説明しろと言われたら、僕はいつも「Silk Degrees の Lido Shuffle のフェードアウト」と答えることにしている。
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